「年金が減らないなら働ける」その言葉に疲れた朝、喫茶店で聞いた静かな本音

老後を考える男性
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65万円の壁よりも、私の心にできた小さな壁

副業をする女性

2026年5月23日。
庭先の紫陽花が、まだ色を決めかねているような顔をしていました。梅雨入り前の空気は少し湿っていて、朝の味噌汁を作る手元にも、どこか初夏の気配がまとわりつきます。

この季節になると、私は毎年、扇風機を出すタイミングで迷います。まだ早い気もするし、でも昼間は汗ばむ。年を重ねると、こういう小さな判断が増えます。冷房をつけるか。半袖にするか。病院の予約を先に入れるか。年金の書類を読むか。

そして今年、私が少し気になっているのが「在職老齢年金」の見直しです。

2026年4月から、働きながら年金を受け取る人の支給停止基準額が、月51万円から月65万円へ引き上げられました。つまり、給与と老齢厚生年金の合計が65万円を超えなければ、老齢厚生年金が減らされにくくなったということです。(政府オンライン)

一見すると、これは明るい話です。

「まだ働ける人は、もっと働いても年金が減りにくい」
「収入を増やしながら老後資金を守れる」
「人手不足の時代に、経験ある世代が活躍できる」

たしかに、その通りです。

でも、私はこのニュースを見たとき、少しだけ違うことを思いました。

年金の壁が上がったことで、今度は「働かない理由」がなくなってしまう人もいるのではないか、と。

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年金が減らないなら働くべき、という空気がこわい

これまでは、働きすぎると年金が減るから、少し抑えて働く。
そんな考え方をしていた人もいたと思います。

ところが基準額が65万円になると、以前よりも年金を気にせず働きやすくなります。これは制度としてはありがたいことです。日本年金機構も、改正後は一定のケースで年金が全額支給される例を示しています。(年金機構)

ただ、ここで気をつけたいのは、制度が変わると世間の空気も変わることです。

「年金が減らないなら、まだ働けるでしょう」
「人手不足なんだから、週5で入ってほしい」
「健康なら、年金をもらいながら稼げばいい」

こういう言葉が、本人の体力や家庭事情を置き去りにして飛んでくるかもしれません。

私の知人にも、定年後に再雇用で働いている男性がいます。最初は週3日のつもりだったのに、気づけば週5日。若い社員に頼られ、断れず、体は疲れ、家に帰ると夕飯の途中で眠ってしまうそうです。

本人はこう言いました。

「金は少し増えた。でも、月曜日の朝がまた怖くなった」

私はその言葉が、妙に胸に残りました。

老後資金は大事です。
年金も大事です。
NISAも配当も、退職金の運用も大事です。

けれど、老後に一番減らしてはいけないものは、実はお金ではなく「自分で一日を選んでいる感覚」なのかもしれません。

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増えた収入が、知らないうちに生活費へ溶けていく

働きながら年金がもらいやすくなると、家計には余裕が出ます。

月に数万円でも収入が増えれば、安心感は違います。
孫へのお祝いも出しやすい。
外食も少し気楽になる。
古くなった冷蔵庫も買い替えられる。
歯医者や眼科も後回しにしなくて済む。

しかし、ここにも小さな落とし穴があります。

収入が増えた分だけ、生活の基準も静かに上がってしまうのです。

たとえば、コンビニで少し高い弁当を選ぶ。
スーパーで国産肉を迷わず買う。
スマホの料金プランを見直さない。
使っていないサブスクを放置する。
「働いているからいいか」と、ついタクシーに乗る。

ひとつひとつは悪くありません。
むしろ、年齢を重ねたら少し楽をすることも大事です。

ただ、「働いて増えたお金」が「働く疲れを癒やすための支出」に消えていくと、何のために働いているのか分からなくなります。

朝から夕方まで働き、帰り道に総菜を買い、疲れて寝る。
休日は体を休めるだけで終わる。
通帳を見ると、思ったほど残っていない。

これは、若いころの働き方とあまり変わりません。

60代からの働き方は、収入額だけで決めない方がいいです。
むしろ、「増えた収入のうち、いくらを未来に残し、いくらを今の自分を楽にするために使うか」を決めておくことが大切です。

たとえば、月3万円増えたなら、1万円は貯蓄、1万円は医療やメンテナンス、1万円は楽しみに使う。
こうして名前をつけておくと、お金がただの水のように流れていくのを防げます。

お金は、増えた瞬間よりも、使い道を決めた瞬間に安心へ変わります。

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びっくりしたのは、働きすぎていたのが自分ではなかったこと

ここから、少し私の話をします。

先週、私は近所の喫茶店に入りました。
昔ながらの店で、アイスコーヒーのグラスがやけに重い。壁には古い振り子時計があり、カウンターにはスポーツ新聞が置いてあります。

私はそこで、年金の壁が65万円になった話を、隣に座った同年代の男性としました。

その人は、退職後も週4日働いているそうです。
私はてっきり、生活費のためだと思いました。

ところが、彼は笑って言いました。

「本当は、もう働かなくても何とかなるんです」

私は少し驚きました。

「では、なぜ働いているんですか」と聞くと、彼はアイスコーヒーの氷を指で回しながら言いました。

「妻が、私に家にいられると疲れるらしいんです」

思わず笑ってしまいました。
でも、彼の顔は半分だけ本気でした。

退職して家にいる時間が増えた。
すると、妻の台所仕事が気になる。
掃除の順番が気になる。
テレビの音量が気になる。
本人は悪気なく話しかけているつもりでも、妻からすれば生活のリズムを乱される。

それで彼は、家計のためではなく、夫婦の平和のために働いていたのです。

私はその話を聞いて、在職老齢年金の本当のテーマは「年金が減るかどうか」だけではないと思いました。

60代の働き方は、お金の問題であると同時に、居場所の問題でもあります。

家に居場所がある人。
職場に居場所がある人。
地域に居場所がある人。
どこにも居場所がなくて、とりあえず働いている人。

年金の壁が上がったことで、働きやすくなったのは事実です。
でも、働く理由まで制度に決めてもらう必要はありません。

びっくりする話をすると、老後資金を守るために必要なのは、最新の投資情報よりも、まず「自分はどこにいると機嫌がいいのか」を知ることかもしれません。

家にいると不機嫌になるなら、少し働く。
働くと体が壊れるなら、少し休む。
お金が不安なら、支出を小さく整える。
人恋しいなら、収入にならない活動でも外に出る。

結局、老後のお金で一番怖いのは、足りないことだけではありません。
「足りない気がして、必要以上に自分を働かせてしまうこと」も怖いのです。

2026年の初夏、紫陽花が色づく前のこの時期に、私は思います。

年金の壁は65万円に上がりました。
でも、自分の心の壁まで上げなくていいのです。

働けることは幸せです。
けれど、働かない時間を堂々と持てることも、老後の大切な資産です。

お金は通帳に残ります。
でも、今日の昼寝、妻との散歩、朝の味噌汁、庭の紫陽花を見る時間は、使わなければ残りません。

だから私は、これからの働き方をこう考えたいです。

「いくら稼げるか」ではなく、
「いくら稼げば、自分の一日を取り戻せるか」。

この問いを持っている人こそ、年金の壁を本当に越えられる人なのかもしれません。

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