一番安いパンを選び続けた男が、真ん中のうな重で人生を取り戻した日

価値を楽しむ男性
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「安いから買う」を卒業した日。60代からのお金の価値観は、財布より先に“時間”に出ます

価値を楽しむ男性

令和8年7月9日、七夕の笹飾りも少し色あせ、暦の上では小暑を過ぎました。朝のうちから蝉の声が少しずつ強くなり、庭先の鉢植えに水をやるだけでも、額に汗がにじむ季節です。こういう時期になると、若い頃は「夏は電気代が上がるなあ」と真っ先に財布のことを考えていました。今でももちろん、電気代は気になります。年金生活や自営業の収入が不安定な暮らしでは、固定費の増加は小さな事件です。

ただ、60代に入ってから、お金の価値観が少し変わってきました。若い頃のお金は「増やすもの」「残すもの」「損しないように守るもの」でした。ところが最近は、お金とは「自分の残り時間をどう扱うかを映す鏡」ではないかと思うようになりました。

今回のテーマは、少しニッチです。年金をいくらもらえるか、NISAで何を買うか、退職金をどう運用するか、そういう王道の話ではありません。あえて、「安さを追いかける老後は、本当に得なのか」というお金の価値観について書いてみたいと思います。

老後のお金の話になると、多くの記事は「支出を減らしましょう」「長く働きましょう」「資産を活用しましょう」と言います。たしかに、老後の収支改善には、収入を増やす、支出を減らす、資産を活用するという基本があります。これは大切です。金融広報中央委員会の知るぽるとでも、老後収支改善の基本として、収入を増やすこと、支出を減らすこと、資産を活用することが紹介されています。

しかし、ここで見落としがちなのが、「支出を減らすこと」と「自分を小さく扱うこと」は同じではない、という点です。

私はこれまで、安いものを探すのが上手な人を、暮らし上手だと思っていました。スーパーの見切り品、ガソリンの数円差、ポイント5倍の日、無料クーポン、半額シール。もちろん、こうした工夫は悪くありません。むしろ、生活を守る知恵です。けれど、ある日ふと気づいたのです。安いものを探すことに夢中になりすぎると、いつの間にか「自分が本当に欲しかったもの」を忘れてしまうことがあります。

60代のお金の価値観で怖いのは、貧乏になることだけではありません。「何を買っても心が動かない人」になることも、なかなか怖いのです。通帳残高はそこそこあるのに、毎日の昼ごはんは一番安いパンで済ませる。暑くてもエアコンを我慢する。友人から誘われても、交通費がもったいないから断る。すると、お金は残ります。しかし同時に、生活の中の色も少しずつ薄くなっていきます。

7月の朝、ぬるくなった麦茶を飲みながら家計簿を見ていると、数字は正直です。電気代、食費、通信費、車の維持費。どれも削ろうと思えば削れます。でも、人間の暮らしは数字だけではありません。夕方に少し涼しくなってから散歩に出て、近所の人と立ち話をする。帰りに小さな和菓子をひとつ買う。そういう数百円が、老後の気分を救う日もあります。

60代の節約は「我慢大会」ではなく「残したい暮らしを選ぶ作業」です

60代になると、若い頃と同じ節約は少し苦しくなります。若い頃なら、安い食材だけで何日も乗り切ることもできました。多少無理をしても、体力でカバーできました。しかし、60代の節約は、体と心に直撃します。安いからといって栄養の少ない食事が続けば、体力が落ちます。人付き合いをすべて削れば、気持ちが沈みます。病院代を惜しんで受診を遅らせれば、あとで大きな出費になることもあります。

だから私は、60代からの節約は「いくら削ったか」ではなく、「何を残すために、何を手放したか」で考えるほうが良いと思っています。

たとえば、車が必要な地域に住んでいる人にとって、車は単なる贅沢ではありません。病院、買い物、家族の用事、ちょっとした気晴らし。そのすべてを支える足です。逆に、ほとんど使っていないサブスクや、惰性で払っている保険、見栄で続けている付き合いの会費は、見直しても暮らしの芯はあまり痛みません。

お金の価値観とは、「安いほうを選ぶ力」ではなく、「自分の暮らしの芯を見分ける力」だと思います。

朝、洗濯物を干すとき、夏の白い光がシャツに反射します。昔なら、くたびれた肌着でも「まだ着られる」と思って使い続けました。今も物を大切にする気持ちはあります。でも、穴があきかけた肌着を着て一日を始めると、どうも自分までくたびれて見える日があります。誰に見せるわけでもないのに、です。そういうとき、安い高いの問題ではなく、「自分を雑に扱っていないか」と考えるようになりました。

もちろん、無駄遣いをすすめているわけではありません。老後資金を使い始める年齢は人によって違い、生命保険文化センターの調査では、老後資金を使い始める年齢の平均は67.2歳で、65歳が最も多く、次いで70歳となっています。 長い老後を考えれば、家計の見直しは避けて通れません。ただし、削る順番を間違えると、老後は急に味気なくなります。

私が最近、家計簿に書くようになった項目があります。それは「満足した支出」です。金額は大きくありません。冷たいざるそばを食べた。古い友人に暑中見舞いのはがきを出した。散歩用の帽子を買った。そういう支出に丸をつけます。すると不思議なことに、無駄遣いを責める家計簿ではなく、自分の暮らしを観察する家計簿になります。

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安物買いより怖いのは、「自分にはこれくらいでいい」と決めつけることです

60代男性は、我慢に慣れている人が多いように感じます。家族のため、仕事のため、住宅ローンのため、教育費のため。自分の欲しいものは後回しにしてきた方も多いのではないでしょうか。私もそうです。欲しいものがあっても、「まあ、今度でいいか」と言っているうちに、今度が来ないまま何年も過ぎたものがいくつもあります。

その結果、困ったことが起きます。いざ少し自由に使えるお金ができても、何に使えば自分が喜ぶのか、わからなくなるのです。

これは、地味ですが深い問題です。定年後や60代以降に「やりたいことがない」と感じる人の中には、お金がないからではなく、自分の欲を長年抑えすぎて、欲しいものを感じる筋肉が弱っている人もいると思います。毎日が発見ネットでは、老後不安として「孤独」「健康」「お金」が取り上げられており、60代以降の生き方を見直す視点が紹介されています。

老後のお金の価値観で大切なのは、大金を使うことではありません。むしろ、少額でいいから「自分で選んだ」という感覚を取り戻すことです。たとえば、いつもの安いコーヒーではなく、今日は少し香りのよい豆を買ってみる。スーパーの一番安い惣菜ではなく、体が喜びそうなものを一品足す。古い靴を我慢せず、歩きやすい靴に替える。こうした支出は、投資信託のように数字では増えませんが、生活の歩幅を広げてくれます。

NISAや配当の話になると、私たちは利回りを気にします。年3%、年5%、複利、分散、非課税。もちろん大切です。しかし、60代からはもうひとつの利回りを考えてもいいと思います。それは「気分の利回り」です。

300円の支出で一日が少し明るくなるなら、それは悪くない利回りです。3000円の靴下で足元が楽になり、散歩が続くなら、健康への投資かもしれません。1万円の小旅行で、半年間その話を思い出して笑えるなら、それは思い出の配当です。

問題は、使った金額ではありません。その支出が、自分の暮らしに戻ってきているかです。見栄で使ったお金は、戻りが少ないです。惰性で使ったお金も、戻りが少ないです。けれど、自分の心身に合った支出は、たとえ小さくても長く効きます。

私は最近、コンビニで一番安いものを探す癖をやめました。もちろん高いものを買うわけではありません。ただ、「今日は何を食べたら、午後から機嫌よく過ごせるか」と考えるようにしました。すると、買い物の時間が少し穏やかになりました。数十円の差にイライラするより、自分の体調を見て選ぶほうが、結局は得だと感じます。

最後に気づいたのは、私が守っていたのはお金ではなく“昔の不安”でした

ここから少し、私の知人の話として読んでください。

その方は、65歳を過ぎてもとても倹約家でした。仮に佐藤さんとしておきます。佐藤さんは、退職金にはほとんど手をつけず、年金の範囲で暮らすことを誇りにしていました。外食はしない。旅行もしない。服は買わない。エアコンはよほどの猛暑でなければ使わない。口癖は「老後は何があるかわからんから」でした。

私はそれを聞くたびに、しっかりした人だなと思っていました。ところが、ある夏の夕方、佐藤さんの家に立ち寄ったとき、少し驚きました。部屋はきちんと片づいているのに、どこか空気が止まっているのです。カレンダーは去年のまま。テーブルの上には、スーパーの割引シールが貼られたパンがひとつ。冷蔵庫には同じような安い食品が並んでいました。

「貯金、だいぶあるんでしょう」と聞くと、佐藤さんは小さく笑いました。

「あるにはある。でも使うのが怖いんよ」

その言葉を聞いて、私は胸に残るものがありました。佐藤さんは、お金を守っていたのではありません。昔の不安を守っていたのです。若い頃に苦労した記憶、給料日前の心細さ、家族を食べさせなければならなかった責任感。それらが、通帳の中にそのまま眠っていたのです。

その数日後、佐藤さんから電話がありました。

「明日、うなぎを食べに行かんか」

私は冗談かと思いました。佐藤さんが外食に誘うなど、初めてだったからです。

翌日、二人で小さな店に入りました。土用の丑の日にはまだ少し早い時期でしたが、店内には甘辛いたれの匂いが漂っていました。佐藤さんはメニューを長く見つめ、いちばん安いものではなく、真ん中くらいのうな重を頼みました。そして、ひと口食べてから、ぽつりと言いました。

「わしは、老後のために金を残しとった。でも、今日も老後なんやな」

私はその一言に、少しやられました。

びっくりしたのは、そのあとです。佐藤さんは、長年しまい込んでいた退職金の一部で、豪華旅行に行ったわけでも、高級車を買ったわけでもありません。買ったのは、近所の子ども食堂に届ける扇風機でした。しかも一台ではなく、数台です。

「自分のために使う練習をしようと思ったけど、わしはこれが一番うれしいみたいや」

佐藤さんはそう言いました。

私はそのとき、お金の価値観とは「自分だけに使うか、人のために使うか」ではないのだと気づきました。大事なのは、そのお金を使ったあと、自分の心が少し前を向くかどうかです。佐藤さんにとっては、うな重も、扇風機も、同じ意味を持っていました。どちらも「まだ生きている今日」を取り戻す支出だったのです。

60代からのお金は、増やすだけでも、守るだけでも足りません。ときどき、怖がりながらでも使ってみることが必要です。小暑を過ぎ、蝉の声が強くなるこの季節、冷房の効いた部屋で通帳を眺めるだけでは、夏は過ぎていきます。けれど、誰かと冷たい麦茶を飲むために少しだけお金を使えば、その日は記憶に残ります。

お金の価値観は、老後になってからでも変えられます。むしろ、60代からが本番かもしれません。若い頃の不安に支配されたまま節約するのではなく、これからの自分を少し大事にするために使う。そんなお金の使い方を、私も少しずつ練習していきたいと思います。

最後に、今日の家計簿にひとつだけ書いてみてください。

「今日、自分を少し大事にした支出は何だったか」

金額は100円でもかまいません。もしかすると、その小さな欄こそが、老後資金の計算表よりも、自分の人生を正直に映してくれるかもしれません。

【参考にしたサイト】
・All About「老後のイメージを夫婦で共有しよう」「老後の交際費・娯楽費」など
・毎日が発見ネット「60歳からの生き方」「老後不安」関連記事
・知るぽると「長い老後の生活資金」
・生命保険文化センター「老後とはいつから? リスクに備えるための生活設計」
・マニュライフ生命「老後資金はいくらあれば安心?必要額の目安について」

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