政治の言葉が響かない理由?「ねばねば構文」を60代が解説するブログ

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石破首相の「ねばねば構文」と私たちの選択

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今日もコーヒーを片手に新聞を広げる。すると、見出しには「石破首相の“ねばねば構文”が国民に響かない」とある。私は60代の一個人、政治評論家でもなければ、何かの専門家でもない。ただ、長く生きてくると、政治の世界にも「言葉の重み」が必要だとしみじみ思う。

「~せねばならない」「~でなくてはならない」

石破首相の発言にはこの言葉が多いらしい。なるほど、何かしら義務を強く感じさせるこの言葉に、国民の気持ちは乗るのだろうか?そんなことを考えながら、私は昔のことを思い出した。

目次

言葉の持つ「力」と「響かない言葉」

昔の上司の口癖と「ねばねば構文」

私は若い頃、ある会社で働いていた。当時の上司がよく言った言葉がある。

「お前はもっと努力せねばならない」

当時の私は、その言葉にどう応えればいいのか分からなかった。努力するのは当たり前なのに、どうして「せねばならない」と言われると、心が重くなるのだろう。

同じように、今の国民も「~せねばならない」という言葉を聞くと、「またか」と感じてしまうのかもしれない。言葉というものは、時には相手を奮い立たせるが、時には重荷にもなる。だからこそ、首相の発言には「共感」や「具体的な行動」が求められるのではないか。

「納得と共感の内閣」…それは誰のもの?

石破首相は「納得と共感の内閣」を掲げた。しかし、この言葉がどこか空虚に聞こえるのはなぜだろう。

「納得と共感」とは、国民が感じるもののはず。

それなのに、まるで政府側が「納得する内閣です」と言っているように聞こえる。これは、相手の立場で物事を考えていない証拠ではないだろうか。私たちが本当に求めているのは、**「私はこうする!だから皆さん、ついてきてほしい!」**という強いリーダーシップではないだろうか。

「ねばねば構文」が生む責任回避

石破首相の「~せねばならない」は、一見すると責任感のある言葉に聞こえる。しかし、よく考えてみると、「誰がするのか」がぼやけていることに気づく。

たとえば、

「政府は政治とカネの問題を解決せねばならない」

と言われても、では「誰がどのように?」が分からない。これでは、国民は「また言ってるだけだ」と思ってしまう。こうした言葉が繰り返されるうちに、政治家の言葉はどんどん軽くなってしまう。

ねばねば構文に学ぶ、日常生活の会話術

言葉の重さと軽さ

ふと思う。私たちの日常会話でも、似たようなことはないだろうか。

「ちゃんと運動せねばならない」

「もっと貯金せねばならない」

これを言われると、なんだか重たい。だったら、こう言い換えてみるのはどうだろう。

「今日は10分だけ歩いてみようと思う」

「この1000円を貯金に回してみる」

こうすると、具体的で、しかも実行しやすい。政治の世界でも、「国民に何を求めるのか」よりも「政府が何をするのか」をはっきりさせるべきではないか。

60代の私が思う、「共感する言葉」

ここまで考えてみると、やはり「共感できる言葉」を話すことが大切だと気づく。では、私たちはどんな言葉に共感するのか。

ある日、孫がこう言った。

「おじいちゃん、今日のご飯、おいしいね!」

たった一言だけれど、心にしみる。これが「共感の言葉」ではないだろうか。相手の立場に立ち、相手の気持ちを動かす言葉。政治にも、もっとそんな言葉が必要だ。

リーダーの言葉とは

シンプルな言葉の強さ

歴史を振り返ってみても、優れたリーダーはシンプルな言葉で語る。

「私はベルリン市民である」(ケネディ)

「Yes, we can.」(オバマ)

「自由か、死か」(パトリック・ヘンリー)

「国を問わず、人間の尊厳こそが大切だ」(ネルソン・マンデラ)

どれも短く、力強い。人の心を動かす言葉は、単純で分かりやすいものだ。

シンプルな言葉が持つ力は、ただ簡潔であることだけではない。それは、聞く人の心に直接響くからこそ強いのだ。長々とした説明を要さず、直感的に理解できるメッセージこそが、人を動かす。

例えば、日常生活でも、回りくどい言い方よりも、シンプルな言葉のほうが相手に伝わりやすい。

「頑張れ」と言うよりも、「あなたならできる」と伝えるほうが、心に残る。

「気をつけてね」と言うよりも、「無事に帰ってきてね」と言うほうが、気持ちが伝わる。

シンプルな言葉には、余計な説明がない分、心がこもる。政治の世界でも、日常の会話でも、「簡潔で本質的な言葉」が人を動かすのだ。

私たちもまた、日常の中で「相手の心に届く言葉」を選んで使っていきたい。

私たちの選択

石破首相の「ねばねば構文」は、政治の世界の話かもしれない。しかし、私たちの日常にも応用できる話だ。

「どう話すか」で、人の心は動く。

例えば、家庭の中での会話を考えてみよう。たとえば、家族に対して「もっと掃除をせねばならない」と言うのと、「今日は一緒に10分だけ片付けよう」と提案するのとでは、受け取る側の気持ちは大きく変わる。

また、職場でも「この仕事を早く終えねばならない」と言うよりも、「この作業を分担して効率よく進めよう」と言う方が、周囲のやる気を引き出すかもしれない。言葉の使い方ひとつで、人の心は前向きにもなるし、逆に重たくもなる。

政治の世界だけでなく、日常でも、どう話すかで人の心は動く。

「ねばねば構文」から、「共感構文」へ。

それなら、私たちも「共感できる言葉」を使いながら、人と関わっていきたいと思う。言葉は、単なる音の羅列ではなく、人と人をつなぐ架け橋である。よりよい関係を築くためにも、「どう伝えるか」にもっと意識を向けてみたいものだ。

おわりに

60代の私は、政治の世界に足を踏み入れるわけではない。でも、一市民として「言葉の持つ力」に敏感でいたい。次にテレビで首相の話を聞くときは、ぜひ**「その言葉に、私たちの心は動くのか?」**を考えてみてほしい。

言葉とは、ただの音ではなく、人の心に残るものである。心に響く言葉もあれば、そうでない言葉もある。だからこそ、私たちは日々、誰かの言葉に耳を傾け、そこに込められた想いを感じ取るのだ。

かつて、友人が言った。「人の心に響く言葉は、理屈ではなく、想いがこもっているものだ」と。思えば、心に残る言葉というのは、シンプルなものが多い。「ありがとう」「頑張ったね」「大丈夫だよ」──そんな言葉こそ、人の心を温めるのかもしれない。

最近、孫と散歩をしたときのこと。道端に小さな花が咲いていた。「おじいちゃん、これ、可愛いね!」と孫が言った。私はその一言に、何とも言えぬ温かさを感じた。言葉には、不思議な力がある。たった一言で、人の心を動かすことができる。

政治家の言葉も同じだ。誰かを説得しようとするのではなく、共感を呼ぶような言葉が求められる。言葉の力を知り、心を込めて話すこと──それが、私たちがリーダーに求めるものではないだろうか。

今日のコーヒーは、少し苦みが強かった。でも、それがまた、人生の味なのかもしれない。苦みがあるからこそ、甘みが際立つ。人生もまた、そういうものなのだろう。

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